日進月歩 見聞主義

三十路から再び音楽を志した人の活動日誌

僕と学生時代と数学の小話

チマチマと初等数学の勉強をやり直している。

これが音楽とはまた違った息抜きになり楽しい。

 

普段自分が仕事をしている世の中や、自分のライフワークである音楽といった、なんだか曖昧模糊としていて、まるでクリアな正解のようなものなどは存在しないであろうフィールドとは対照的(もちろんガチの数学は超絶な謎に挑む学問ものだと思うけれども)で、明確でキッチリだったり思考もパリッとしていたりで、またコツコツできることもあり、個人的には不思議な安定感を得られる程よいエクササイズになっている。

 

きっかけは一時期、自分がIT系へ転職を考えたことを機に、資格取得に際し理系的な頭の使い方の基礎が必要だと感じたときだ。

数学は大の苦手だった学生時代。成績はいつも下から何番めの自分の、止むを得ず受けなくてはならなかったセンター試験、数IAはマークシートにも関わらず本気で真面目に向かっても15点という惨憺たる有様。

やばいのは分かっていたので、転職を考えた当時は有給を駆使してITと同時に算数から毎日猛勉強した。

社会人向けの教本を見ながら、「おはじき」やら「じゅうえんだま」を並べるところ、つまり数の概念を叩き込むところから再スタート。

だんだんとステップアップして、1ヶ月くらいでやっと中学生レベルに。この辺りで文字式を習い始めると、プログラミングの基礎も飲み込みやすくなった。

同時進行で資格の教材で過去問を解いたりして、その資格(基本情報技術者)の方は、奇跡的に4ヶ月での取得に成功。

試験直後、手応えは惨敗の気分だったので諦めていた。1ヶ月後、何やら資格の本部から封書が届いた時、「どうせ不合格通知と採点結果だろう」とやさぐれていたが(こういうところに、自分の払拭し難い理系科目コンプレックスがにじみ出ているのだ)、中には立派な証書が入っていた(大臣のサイン?がプリントされていた)。マジで何かの嘘だと思ったが、取れたのだった。飛び上がるほど喜んだ。

だが、結局は紆余曲折を経て悩み抜いた末、仕事人としては業界は進まないことにしたのだった。

 

また今年から勉強を再開。

今は自分自身のために勉強をしている。

苦手だったことを克服する楽しみは格別。

今のモチベーションの原動力は、過去の自分を救うためだ。

 

思えば数学を嫌いになったのは、元々のセンスの弱さ、算数で説明が分からずいきなりつまづいたことの苦手意識、それによるやさぐれがまず第一。

個人的にはいまだから思う。算数と数学は、他の科目より特にあらゆる意味で積み重ねが必須で、抜け漏れが命取りな、まるでジェンガか、長い糸のような教科だと。

基礎で一度つまづくとリカバリーは困難な上、それを放置すると、振り向いた時にはどこでつまづいたかが全く分からなくなる。そのころにはメンタル的にも、向き合うことをいっそう敬遠してしまうので、まさに負のスパイラル。つまづきが許されない。

自分は小学生ですでに中程度の悪循環に陥っていた。

 

それに追い討ちかけた因子は、ヒステリー教師のイジメだったと思う。

中学時代も塾などでキツい教師はいたが、特にエグかったのは高校時代の教諭。

高校では、解けない生徒を泣き出すまで執拗に指名し大声で恫喝する、男子校上がりの恐怖の古株迷物教師(政治がうまくクビにならない)に、高校しょっぱなの授業で叩きのめされた。

「良いか?!お前はできないんだよ!」と指差し絶叫、まさにハートマン軍曹。「自尊心を折るのが仕事」と言わんばかりの衝撃波。クラスの視線が集まる。

頭が真っ白になった。入学当初は受験に失敗し滑り止めに終わったことの落ち込みを抱えていたその頃の僕には、これは刺激が強すぎたようだ。

そこから、地獄の1年を通じて不登校レベルのトラウマを負いながら、自分の中で数学はどんどん得体の知れない謎のモノへと変貌していった。

次第についていけなくなると、授業も最初から試合放棄。どんなに罵倒されてもグレて反抗し暴れる度胸もなかった自分は、授業中はことさら「おバカ」に徹して教師の矛先をかわすという、16歳にしてうだつの上がらない惨めな時間を過ごしたのだった。

リベンジを狙ったものの、学校が家から遠く、都内まで満員電車で1時間半ほど通学していたこともあり、モヤシは疲労困憊、全体的に勉強に精が出ない。ギターに没頭して一握の自我の死守に取り掛かったことで、今度はトータル学力もさらに下降。根性なし。人間失格。そのまま命からがらこの牢獄を出所。

浪人に際し文系に専念、数学での敗北は決定的になった。

 

結局最後まで、「絡まった長い長い糸」をほぐす気力(あるいは「壊れた巨大ジェンガ」をもう一度きれいに積みなおす体力)が回復することのないまま、全ての学生時代を終えた。

 

今でも、悩んでいたり落ち込んでいるときは、あの教室で問題が解けなかった自分の夢を見ることがある。

はたして「勉強をできないことの罰」が、あのような私刑じみた認識で行われるというのは、「机に向かうよう悔い改めさせる」方法として良いものなのか?

そのような方法で学問に嬉々としてのめり込むものは居るのだろうか。

もしかしたら居るのかもしれないが、僕自身は今でもモヤモヤする派だ。

勉強しなかったのは自分も悪い。でも10代にして自己責任論で全てを飲み込むには酷な体験だとも思うのだ。自分のキャパはそこまでなかった。強い人間ではなかった。

 

この挫折感と屈辱感、自分を卑下して逃げた惨めさを、今度こそ習得で克服し、スッキリしたい。記憶に巣喰う「あの日々」の亡霊を成仏させたい。

 

もう出来損ないとは言わせない。

(俯瞰すれば、ひょっとしたらこんなふうに相手を一念発起させることが軍曹の狙いだったかもしれない、という面もある。だとしても、勉強の得手不得手を人格の否定に直結させる指導メソッドというのは、どう考えてもヤバイだろう、と改めて思うのだった。)

 

 

今ではそんな自分が、なんだか青臭い想いを叶えるため、コツコツと学習中だ。

もう邪魔するものがいない。そして期限に急かされることもない。

自分のペースで味わい、消化する。

正直、今の方がずっと楽しい。

心おきなく純粋な学問の面白さに浸れる。

やっぱり数学は面白い教科だったのだ。

 

現在は高1の単元。

待ってろよ学生時代の僕。

だいぶ遅くなったけど、もうすぐ見返してやるから。

 

 

(なんだかポエマー風なのは、ほろ酔いの元落ちこぼれが回顧して生じた一握のナルシシズムによるものですが、命に別状はありませんのでどうかご容赦下さいませ)