ギターの練習の小話
約2週間ぶりにみっちりとギターを弾けた。
気がつくと3時間弱は練習していたが、そのほとんどはこれまでのおさらいで終わってしまった。
練習の最初に必ずしているのは基礎練習と、丁寧に弾くだけで技術の質のいい練習になるフラメンコギターの難曲を2〜3種類。今日はいつも以上に速度を落としてさらった。
前回の練習からだいぶ間が空いてしまっているが、個人的にはブランクはある意味で良い効果ももたらすと思っている。それが確信に変わってから、余計な心配はある程度軽減されてる。
そのこととは、弾かないことで、良くも悪くも「忘れる」という点。
すなわち「癖」も忘れられるということ。
日々連続して練習していると、自分でも気づかぬ間に些細な「変な癖」がついていたりする。何度繰り返しても同じミスに陥る。その原因の比重として見逃せないは、意識の固着と思い込み、そして無駄な力みに依る。
そんな時はギターのことを忘れるくらい別のことに集中することで時間を充分に置く。
しばらくしたある日、何気なく練習を再開した時には、その頃の袋小路から出られるケースがある。
久しぶりすぎて力が入らず、指を思うように動かせないことが、もしかすると意外な秘訣なのかもしれない。
視野狭窄と無用な完璧主義を抜け出し、アタマが固めた「弾けているという錯覚」のリセット、そして脱力を手にする。
そのお陰か、働いている今でも幸いにある程度以上の技術を継続して維持できている
と感じる。運がいい時には成長を感じる時もある。
単純に技術だけを取り出すと、自分は学生時代の方がバカテクだったと思うが、それには無駄な力みも大量にあり、腱を痛めかけたこともしばしば。そしてそのリスクを覆い隠していたのは、無茶できる若き身体能力と修復力だったのはきっと間違いない。
かつて師匠から聞いた話を一つ。
海外である2人のフラメンコギタリストがおり、片方は晩年も第一線で活躍し、もう片方は故障で引退したという。後者の方がパワフルで荒削りな演奏で若年期は定評があった。ところがその手のフォームが乱暴で、改めることもなかったようで、結局それを治せる柔軟な時期を過ぎてから手は固まっていき、次第に年齢とともに耐えきれなくなっていった。
翻って、前者の方は当初、極端にテクニックばかり目立ってばかり。表現は淡白で味がなくパッとしなかったが、その若い頃からの丁寧な練習と脱力積み重ね、そしてアーティストとの出会いで次第に深みを帯びていき、ついに表現でも評価を確立した。
その後者のギタリストはまた、有名になってからも毎年3ヶ月ほどは演奏活動を休止して個人のバケーションを満喫していたという。自慢の爪も全て切り、一切楽器に触れないで過ごし、また3ヶ月後には、爪なしで指頭弾きのヨチヨチ歩きから、自らを鍛えなおすのだという。その度に彼はパワーアップしてステージに帰ってくる。
この話を聞いて価値観が少し変わった。
それまでの自分は、取り組めないことは直情的に焦りにつながりがちだった。
きっとステージでも、練習でも、創作でも、「焦り」は音楽を壊す。テンポも表現も、身体に関わることすべてを、無駄に力ませる。
ガチガチの力みは「楽しい音」とは相反する。
勇気を持って脱力するべし、か。
しみじみとそんなことを考えた。